こちらは史料読解ワークショップ開催レポートの後編です。
前編はこちら。
大学院生対談:史料読解ワークショップに参加して
問題意識と参加のきっかけ
ワークショップを企画し、当日の司会を務めさせていただきました、東京女子大学修士に在籍している中山恵と申します。ドイツ近現代史の中でも、ヴァイマール共和国時代の戦死者記念について研究しています。ワークショップの企画をした動機は、学部時代、卒論を書くまでに、史料を実際に読んでみたり読み方を学んだり考えたりする機会がなかなかなかったことに気付き、これから修論を書くに当たって勉強したいと考えたからです。個人的に、ぜひ藤野裕子先生と小野寺拓也先生から史料に関するお話を伺いたくて、ワークショップへの登壇をご依頼したところ、ご快諾いただき企画が実現しました。
今回はワークショップを振り返るために、記事の執筆にも協力をいただいた同じく大学院生の浅井さんと奥田さんをお招きして対談の場を持ちました。本日の対談はちょうどワークショップ開催から1か月後となりましたね。それではまず、お二人にワークショップに参加した動機を伺いたいです。
青山学院大学修士2年の浅井皓平です。所属は東洋史ですが、日本近代史の研究をしています。1880年代から1890年代に活躍した漢方医の医師団体が専門です。ワークショップに参加した経緯は、他大学・他分野の研究者がどのように史料を読解しているのか気になっていたのと、藤野先生のお話を聞いてみたかったからです。あとは、学部3年の終わり頃から Historians’ Workshop の活動に参加していたからですかね。
東京大学修士1年の奥田弦希です。第一次世界大戦におけるハプスブルク帝国のイスラーム教徒について研究しています。
ワークショップに参加した理由ですが、史料読解は歴史学を研究する上で最も重要な要素のひとつであるにも関わらず、実は体系的に勉強したことがほとんどなかったので、第一線で活躍されている藤野先生や小野寺先生のお話をぜひとも伺って自分の研究に役立てたいと思ったからです。
体系的に勉強したことがない、というと僕の研究の正確性自体が疑われそうなので少し弁明させて頂くと、史料読解のやり方は卒論を書きながら肌で覚えろという感じで、ゼミの文献講読を通じて職人芸のように身に刻んでいくようなもののように思われたからですかね。
確かにそのような体育会系みたいな「肌で覚えろ! 繰り返しやればいつかできるようになる!」みたいな風潮はありますね。
史学科にいるのにちゃんと史料の読み方を習っていないっていうのはちょっとヤバいといえばヤバい気もします……(笑)
確かにワークショップでも言われていましたが、読み方を共有する場がなかったということですよね。
史学概論で理念的な話はやったと思うんですが、そのときは学部二年であまりピンと来ていませんでした……。
学部だと、正直私は卒論を書くまで一次史料についてあまり考えたことがなくて、まず史料調査の段階で難しさを感じました。
確かに……実は今絶賛史料の読み方で困っていまして……これまで公文書を利用することがなかったのですが、修論で急遽公文書を自力で読む必要が出ていまして……今は公文書を使っていそうな同級生に話を聴きながらやっていますが、それでも自信がありません。
私は卒業論文で一次資料を使っていなかったので、評価は厳しかったです……今は反省材料として良い経験をしたと無理やり言い聞かせています。
卒論で一次史料の利用は必須なのですか?
修士に進学するからにはやらないといけなかったかと。しかも史料にアクセスしやすい日本史ですから。
私の所属する学科では必須ではなくて、卒論は外国語文献を使わなければいけないほかは二次文献だけで大丈夫なのですが……。
本学の西洋史ゼミでは外国語文献は必須で、そちらも苦労しました……。もちろん史料分析は歴史学の卒論としての妥当性に関わりますのでやりますが、一次史料に直接アクセスできない場合は、史料はほかの先行研究から引っ張ってきて分析することも多かったと思います。面白かったのが、西洋史でも近現代史だからなせる技ですが、同じゼミ生ではインターネットからアクセスできるのですが、アレンスバッハ世論調査研究所によるアンケートのデータを一次史料として使用している方がいました。公的な世論調査だから史料にできたわけですが。
先日のワークショップで読んだ史料は、どちらも——裁判史料も広義には——エゴ・ドキュメントでしたが、それとくらべると公文書にはどんな難しさがありますか?
そうですね……私自身の問題もありますが、
①そもそもくずし字が読めない
②決済の仕組みがわからない
③そもそもどういう順序で民間人から公の機関に提出するのかわからない
の3つあたりですかね……今回のワークショップに引きつけるならば、役人側の理屈を分析するのが大変です。文字通りに解釈して良いわけではないので……いわゆる本音を見極めるのが大変です。
③の制度史的な知識も必要になるんですよね……今回の戦前の日本の裁判制度もそうでしたが……。
戦前の裁判記録の制度もそうですね! 日本法制史なら理解できて当然かもしれませんが、同じ日本史でも領域が違うので、自力で知るのも結構大変です……。
文字を読むのも一苦労 ——読解の前に
①については藤野先生がよく仰っていましたが、くずし字を読むのは外国語みたいなものですしね。本当に少しだけ、大学の講義で、くずし字で書いてある漢数字の読み方を習ったことがあるのですが、わかる喜びもあるにしても難しかったです。
卒論で、ドイツ語の髭文字で散々苦しんだのでわかります(笑)
やはり言語の壁は歴史学で避けては通れない道ですね……。
ドイツ語なども筆記体の手書きの文字となると、さらにそれも読む訓練が必要なんですよね。
手書きのドイツ語を読むための専門の授業まであるらしいですね。
そうですそうです。小野寺先生の読んでいらっしゃる手紙は手書きなので大変なお仕事だと思います。
すごい……ドイツ語にそんな世界があるなんて……。
今回は全部翻訳されていたので、史料読解以前の壁はすべて取っ払われていたはず……なんですよね……。
そうですね。
文書の解釈も大事ですけど、その手前である「その文字が読めるかどうか」も院生や学部生にとっては問題ですよね。ポストを得ている研究者はできますが、学生にとっては難しい気がします……博士後期はわかりませんが……。
それは本当に訓練に依るところになるでしょうね……学部生にはもちろん難しいでしょう。
ワークショップから学んだこと
さて、次の質問ですが、今回のワークショップで自身の研究にはどんなことを持ち帰ったり、活かしたりできそうでしたか?
マインドセットの話になってしまいますけど、「史実」を確定することは確かに困難ではあるけれど、その試みを放棄してはいけなくて、いくつかの留保はおきながらでもそこから見えてくるものは決して少なくないということ、そして周囲の人々と議論することが大切だということですかね。
これも藤野先生のワークショップのときの重要な論点の一つでしたね。むしろ、その考え続ける営みこそが歴史学であると言いますか……。
活かせそうなこと……史学史やカーなどの史学理論は大事だなと思いました。事実だけでは歴史学の研究はできないし、理屈だけでも歴史学の研究はできない。事実と理屈の両輪がそろわないと、研究は進まないんだなと改めて思ったことですかね……。
そうだと思います。これもよく藤野先生がおっしゃっていますが、そもそも先行研究の読み方も、なぜその研究が登場してきたのかという背景を知らないと、議論や批判が堂々巡りになってしまいますよね。
いま、カーの『歴史とは何か』を4年ぶりに読み直しているのですが、まさにそんなこと言っていましたね。歴史家も歴史の一部だから、歴史家の研究もしろ、みたいなことでした。
カーは読書会をやって通読しましたが、歴史学入門の講義で取り上げられる定番の本であるにもかかわらず結構難しかったです。ですが、歴史家であるカー自身も当時の歴史的背景があった上でものを言っているのがメタ的にわかるのが面白かったです。
あれ結構難しいですよね……色々な歴史理論の本を読みこなすことを通して、やっとふんわり言いたいことを理解しました……。
これまでの史料の読み方と比べて
純粋な疑問なのですが、ワークショップに参加するまで、何を意識して史料読解していましたか?
何を意識して……と言われても……卒論は読むので精一杯で、がむしゃらに読んでました。
がむしゃらに読む気持ちわかります……私も修士1年の頃はとにかく集めて片っ端から読みまくっていました……。
史料にもよると思うんですが、私も卒論のとき、やっぱり字義通りに読むだけだと、イデオロギー批判するだけになってしまいました。ですが、今考えるとなぜそういうことが書かれたかとか、史料の背景までわかっていないと/考えないといけないんだなと……。でもどうやって深掘りすれば良いのかというのも難しいところですね。
なぜそういうことが書かれたのか深く考える……耳が痛いです……。
字面の奥まで読まなければいけないということですね。
字面の奥まで読むために、普段から意識していることってありますか? お二方に聞いてみたかったので……。
やはりまずは背景やその史料の事情を知ることから始めています。今回のワークショップに即して言うなら、調査と問いの立て方でしょうか。個人的には、ゼミの先生が、歴史学はいかに史料にものを言わせるかという学問だと言っていたのも印象に残っています。
あとは問いがあって始めて史料の位置付けが決まってくるということでしょうか。問いによって史料の性格自体が変わってくるというか。
史料の事情の説明には、藤野先生も小野寺先生も力を入れられていましたよね。なるほど。確かに、その史料を活かすも殺すも歴史家次第ですからね……ありがとうございます!
あと、一つの事件について、いろんな角度の史料を確認するのも大事で、見方が変わることもあるというのが、藤野先生のワークショップの肝だったと思います。
複数の史料を付き合わせて始めて史実が見えてくるという話でしたね。
歴史学と教育と社会
ワークショップのまとめの時の議論ですが、教育や社会へのアウトリーチと、研究としての歴史学との境についてはどうお考えでしょうか?
歴史教育に歴史学の技法をどこまで持ち込むのかは、学校の先生と歴史研究者が共同して対処しないといけない問題だと思いましたね。例えば、史料をいくつ使うか、その当時の社会背景をどこまで教えれば、生徒が考えやすいのかなどは双方のコミュニケーションがないと厳しいのではないかと感じました……ただし、学校の先生にそこまでの余力はないでしょうし……。
ちなみに、私は歴史敎育に歴史学の技法を持ち込むのには実は否定的です。小野寺先生が紹介したラブレターのような史料を読んで、時代背景の説明をする程度でよいかなと思います。今回の議論で出てきた学校教育の話は進学校で学ぶ高校生ではないとついていけないものばかりだと思いましたので……。
確かに、大学で学ぶような内容に匹敵するまでにレベルを高くしてしまうとついていけなくなる生徒も出てくるし、準備をする先生も大変ですよね。それに高校までの歴史は、それこそ大学で学ぶ基礎になることがまずは大事なのかなとも思います。
歴史学が歴史教育へとアウトリーチしていくにあたって、史料から実証できる範囲を超えた「歴史的な想像」をどう扱うか、また歴史教育と研究としての歴史学の境をどう分けるのか 、といった問題は不可避的につきまとうと思います。それに関しては浅井さんがおっしゃっているように中学や高校の先生と歴史研究者が共同して対処しなければならない問題だと思います。とはいえしばらくは教育現場でも試行錯誤が続くのかなあと思います。いやあ、難しくて何もちゃんとしたことが言えない……。
『史料から実証できる範囲を超えた「歴史的な想像」をどう扱うか』は大事な問いですね。
小野寺先生のワークショップで議論になっていた点ですよね。
創造や捏造ではなく、想像力のほうが重要であるという。
想像だけでなら何とでも言えてしまうので、僕はいかに史料に根拠を見いだすか、その部分の難しさだけでもわかってもらえたら十分だと思います。
史料からわかることだけでなく、「何がわからないのか」も大事ですね。
想像なら何とでも言えますし、それが曲がった歴史認識になると……。
悪い方向での想像をつきつめると、歴史学の方法論や先行研究を無視したり、ウィキペディアのコピペや都合の良い歴史解釈のみを寄せ集めたりした本になるんだと思うんですよね。
想像をすることが悪いんじゃなくて、想像と事実を混同する姿勢は本当によくないと思うんです。
それが創造や捏造になってしまいますからね。巷やネットにはびこる一面的な歴史解釈や事実誤認は歴史修正主義の土壌になりかねないと思いますし、そうした昨今の状況に対して歴史学や歴史教育はどう対面していけるのかは、喫緊の課題であると感じています。だからこそ研究のアウトリーチも議論の俎上に載せられてきているのではないでしょうか。
先日、日本史を研究されているドイツ人の大学教授とお話ししたとき、いま歴史修正主義が広がっているのは、とりわけインターネットを介してだから、教育現場でよりも、ネット上で歴史教育やアウトリーチをした方が良いんじゃないかと言っていましたね。
なるほど、歴史修正主義の主戦場はインターネットだから、そちらに打って出ていかないとだめだということですね。
あの歴史修正主義の問題は本当に深刻だと思うんです。
右か左かとかそのような論点じゃないんですよね……立論のプロセスに目を向けないと大変なことになりますよね……。
まさにそうだと思います。ある種自分に都合のよい魅力的でかつラディカルな言説への耐性を身につけることが大切だと思います。
歴史修正主義は、正直無視できないレベルまで来ているんじゃないか、歴史学がアウトリーチしていくということは、そうした邪悪な想像の産物と戦わなければいけないということだとも思います。
本当にそうですね。さて、議論はまだまだつきませんが、ひとまずここまでお話いただきありがとうございました!
ワークショップの場だけで終わるのではなく、今一度何を得られたのか、何が課題としてあるかを考え直す機会となりました。
このレポートをきっかけに、みなさんともこれらの問題をさらに考えていくことができれば幸いです。ここまでお読みくださり本当にありがとうございました。
(対談日:2019年8月8日)