2017年5月21日「Skills workshop: How to get your articles published」開催レポート

企画概要・趣旨

2017年5月21日、日本西洋史学会大会の終了後、一橋大学の職員集会所にて歴史家ワークショップが開催されました。遅い時間にもかかわらず40名を越える参加者を迎え、趣のある会場で活発な議論が交わされました。

今回のワークショップは “How to get your articles published” と題し、外国語での論文投稿をテーマとしました。近年、日本の西洋史研究者と海外の研究者との交流はますます盛んになり、外国語での論文執筆や海外雑誌への投稿も身近になってきています。とはいえ、どのような方法で投稿すればいいのか、外国語での論文執筆のコツや注意点は何かなど、基本的な情報は必ずしも共有されていないように思われます。そこで今回のワークショップでは、さまざまな点で海外と積極的にかかわってきた4名の研究者をお迎えし、海外での研究活動や海外研究者との協働、また外国語での成果発表について、ご経験に基づく具体的なお話を伺いました。なお大場はるかさんはビデオ通話を通じてのご参加でしたが、それでも距離を感じない密度の濃い議論ができ、ワークショップのさらなる可能性も感じられたと思います。参加者からも積極的な質問が多く寄せられ、終了後の交流会もふくめて活発な情報交換の場となりました。

各登壇者による報告内容のまとめ

鶴島博和氏(中世イングランド史・熊本大学)

海外で研究すること・海外の研究者と交流することを考えた時に念頭に置くべきなのは、海外の研究者と「一緒に仕事をする」ということではないか。報告者は、英語論文を発表したり海外の学会で報告したりしてきたことについて、外国人研究者にも受け入れられている、と言われることがあるが、自分としてはそう思ってはいない。受け入れられようと思って研究してきたのではなく、海外の研究者と「一緒に仕事をする」、「情報を提供する」という立場で研究してきたつもりでいる。この点は、海外の雑誌に投稿する際にも重要である。投稿する前に学会報告をしたり、ネットワークを作って推薦人や査読者を見つけたりすることが必要になるが、そのためにも「一緒に仕事をする」という感覚、自分から情報を発信するという意識を持っておく必要がある。投稿した論文が掲載されるかどうかは自分の仕事の深さにかかっているという点でも、上記のような感覚・意識は持っておきたい。また、当然ながら、海外の研究者に自分のオリジナルの情報を提供しようとするなら、指導教員から離れても一人で研究していけるようになるべきだろう。

日本の報告・投稿でもそうだが、海外で報告・投稿するときにも、重要なのは相手に理解してもらうことである。そのためには、外国語論文を読んでいて有益な表現を見つけた際には、それを抜き出しておいて自分で使ってみるといい。また、報告時のレジュメは短くし、要点を示すのがいいのではないか。海外の学会での報告や海外の雑誌への投稿を推進するために、国内の学会や研究会で英語で報告する機会を設けるなど、西洋史学界の全体的な底上げが必要になってきていると思われる。

大場はるか氏(近世ドイツ・オーストリア史・久留米大学)

ドイツ語圏の場合は、日本のように継続的に運営されている学会が少ない上、そのような学会が刊行している雑誌には地域史研究の雑誌を除き、ある程度キャリアを積んだ研究者が論文を載せる傾向にある。この種の雑誌に論文を掲載する際には、学会ウェブサイト上の執筆に関する指示に従い自分で論文を仕上げ、編集者に直接論文を投稿することになる。この場合、論文は「査読付き」となる。査読の形態は様々だが、多くの場合は2名の意見が付され、「A(掲載決定)」、「B(要修正だが掲載可)」といったようにアルファベットで判定が出される。

このほかドイツ語圏では日本の学振にあたる機関――ドイツであればDFG、オーストリアであればFWF――から助成金を得ているプロジェクトが学会を開催し、そこでの口頭発表をベースにした論文集が出版されるケースが多い。また、特定のテーマに関して発表者が集められ、一回きりの学会が開催され、同様に口頭発表をベースにした論文集が出されるケースもある。日本の若手研究者が初めてドイツ語圏で研究成果を公表する場合は、この種の口頭発表と論文集への投稿を目指すのが現実的であり、メリットも多い。この種の学会は多くの場合、開催の約1年~1年半前に公募で発表者を募集している(H-Soz-Kultのサイトを参照)。希望者はこの公募に従い、簡単な経歴と報告内容の要旨(半ページ程度)を書いて提出し審査を受け、選抜に通ると学会で発表することができる。公募の中では学会がどのようなテーマで行われるのかが説明されている。それで発表希望者は公募が自分の関心・研究内容に合っているかを吟味し、応募することになる。関心が学会の方向性とずれている場合は選抜の際に落とされるが、関心が近ければ業績のない若手研究者でも選抜 に通ることができる。最終的に同じテーマに関心を持った研究者が集うことになるため、この種の学会への参加はテーマに関する知識を深めるだけでなく、将来協力して研究を行えそうな相手を探す際にも有用である。

なお、報告者は現在進めている共同研究の仲間だけでなく、海外の奨学金に関する情報もこの種の学会参加を通して得ることができた。この種の学会では、発表者のヨーロッパ内での移動に関する費用および学会期間中の宿泊費(多くの場合2泊分)は運営側が支払うことが多く、特に若手に優先的に資金が配分されている。また、歴史学の研究者ばかりが集まる学会もあるが、そうでない学会もあるため、分野横断的な研究を行いたい若手研究者はこの種の学会に参加することで、他分野の研究者で同じ研究対象に関心を持つ人物と知り合うことができる。報告者の場合は演劇史の学会に参加し、演劇学やドイツ文学、新ラテン語文学、音楽学の研究者と知り合うことができた。

この種の学会はほとんどが論文集の出版を前提としており、その旨は公募にも記されていることが多い。学会終了後、発表者は3ヵ月~半年の間に発表内容を論文化して提出する。論文はドイツ語か英語で書ける場合が多いが、運営側に事前に確認する必要がある。論文集は多くの場合「査読なし」であるが、たまに運営側が特定の雑誌の特別号に論文集を掲載することを目指し、「査読付き」となる場合もある。後者の場合は審査が行われるため、掲載決定までにかなりの時間を要するが、事前に学会で参加者にどのような点に注意して論文を書けばよいか尋ねることができるため、要領よく準備が行える。論文の校正については、プロジェクトがベースとなった学会で英語で論文集を発表する場合などは、プロジェクトによってテーマに関する知識を持った校正係が雇われている場合もある。この場合は執筆者は校正にお金を払う必要がない。校正係がいない場合は、執筆者は自分で校正を知人や企業に頼むことになる(英語はEditageなど)。

論文を執筆する際、報告者はドイツ語の場合は最初からドイツ語で執筆している。英語の場合はまだ論文執筆に慣れていないため、最初に日本語で書き、それを英語に訳する形をとっている。ただしその際、構文や論じる順序を英語らしくすることを試み、もとの日本語の文章とは異なる形にする部分も多い。また、「ドイツ語だとどういう風に表現するか」と考えながら論文を執筆し、できるだけ英語らしい形にするように試みている。論文執筆のための文献情報および引用文の管理に関しては、報告者はスイスで開発されたCitaviというソフトを活用している。このソフトは英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語で動かせる。これを使うと文献情報を図書館のOPACやAmazonなどからワンクリックでパソコンに保存できるだけでなく(Citavi Pickerというアドオンを使う)、大量の引用文の管理とカテゴリー化も可能となり、引用文をワンクリックで文献情報とともにWord文書へ転載することもできるようになる。また、欧州の主要な雑誌の脚注の形に合わせて文献情報を出力させることもでき、仕事の効率化に大変有用である。

高橋亮介氏(古代ローマ史・首都大学東京)

報告者は、英国留学(2003-2007年に在学)および数本の英語論文を学会誌に掲載する過程を振り返りながら、外国語での論文発表のハードルを下げる方法、また外国語で研究発表するメリットについて3点を指摘した。

第1に、国際学界あるいは、ある国の学界で論争となっているテーマへの参入は受け入れられやすい。報告者は、ローマ期エジプトの兄弟姉妹婚に関する論文(‘Brother-Sister Marriage and Inheritance Strategies in Greco-Roman Egypt’)を、元指導教員と共著で Journal of Roman Studies 99 (2009) に発表したが、同誌には同じテーマに関する論文が前々年・前年と続けて掲載されていた。報告者らの論文は最初の論文への批判論文であった(2本目の論文もやはり批判論文である)。この雑誌は査読が厳しく、投稿から掲載まで時間もかかるようだが、この論文は極めてスムーズに掲載が決まった。ベテランの研究者でネイティブスピーカーである元指導教員との共著というメリットもあったが、掲載誌上での論争に加わるという性格が審査のスピードや掲載の決定に作用したと考えられる。

ところで、兄弟姉妹婚は報告者の留学前の研究テーマであり、共著者である元指導教員のもとで行った研究ではない。しかし、留学中の2005年に学内のセミナーで報告したこともあり、報告者の研究内容と異なる1本目の論文が発表された直後から、批判論文を執筆しようという話が持ち上がったと記憶している。このように自分の研究が海外でもどれだけ通用するのか、はたして発表する(学会誌へ投稿する)価値があるのかを判断をする際に、海外の研究者の意見や反応が後押しとなることがある。第2のポイントとして、(国内での研究もそうではあるのだが)外国語での論文発表にあたっては周囲の研究者とのコミュニケーションが重要になると指摘したい。

報告者が2012年に発表した論文(‘The Kronion Family’s Loans: An Egyptian Peasant Family Declining under Roman Rule?’ Ancient Society 42)は、エジプトの一家族の経済状況の変化を追ったもので、博士論文の一部であるが、その原型は2006年に英国内の大学院生の学会で発表した。その時の質疑応答やコメントは(報告者の思い込みかもしれないが)悪くなく、学会には参加しなかったが原稿を読んでもらった指導教員たちの評価も良かった。そこで博士課程の修了後に独立した論文として投稿した。

この論文は日本語でも発表したが(桜井万里子・師尾晶子編『古代地中海世界のダイナミズム』山川出版社、2010年所収)、寄稿した論集の書評では大きな展望のない細かい話に終始しているとの批判があった。これは妥当な批判であり、仮に日本語版を査読誌に投稿していたら同様の指摘があったであろう。一方で英語版の査読者からは議論のスケールについての指摘はなく、特に問題視されてはいなかった。

このように同じ議論をしていても、日本の学界と海外の学界での読者の違いから評価もおのずから異なってくる。少なくとも西洋古代史に関しては、海外の学術雑誌の読者に期待されている背景知識と先行研究の理解は、日本のそれよりもはるかに専門的である。したがって、ある研究成果を発表する際には、日本語版と外国語版で書き方(特に序論部分)を変える必要が生じたり、どちらかの言語のみで発表すれば十分ということがあり得る。先の論文は、英語版と日本語版のどちらでも中心となる議論は同じであるが、一方が他方の翻訳ではないし、やはり博士論文の一部を発展させた別の論文(‘Notes on SB XIV 11714 (P.Haun. inv. 24 verso): Its Date and Relationship with the recto (SB XXIV 15987)’, Zeitschrift für Papyrologie und Epigraphik 185, 2013)は、一枚のパピルス紙の表と裏に書かれたテクストの関係と年代を論じたもので、さしあたり日本語で発表する必要があるとは考えていない。

日本の学界と海外の学界は、いまや多分に重なりがあるとはいえ、やはり異なる学問共同体であろう。そして日本ではあまり意味がないと研究者自身が判断したり他者から評価されても、外国語で発表をすれば意義を認められる研究もあるだろう。また厳密に同じ論文を書くのでなければ、二重投稿の問題もクリアできるのではないだろうか(この点については現状では日本語版を先に発表しておく方が、二重投稿とされる危険性が少ないだろうとの指摘がフロアよりあった)。したがって外国語での論文発表は、主に言語の面での困難がともない、時間もかかるとはいえ、研究者の活動の幅を広げると言えるだろう。これが外国語論文を発表するメリットとして挙げておきたい、本報告における3点目のポイントである。

山本浩司氏(近世イングランド史・東京大学)

※以下、レジュメの内容を転載しています。

経験ベース

投稿経験:English Historical Review; Historical Journal; British Journal for the History of Science (accept/accept/revise&resubmit)
査読経験:Historical Journal; Journal of British Studies; Technology and Culture; Memory Studies  その他助成機関3か所
事例:Koji Yamamoto, “Piety, Profit and Public Service in the Financial Revolution”, English Historical Review, 126 (2011), 806-834.

一般誌とは

例えば Past & Present; American Historical Review, Annales, Quaderni Storici; English Historical Review など時代とテーマと方法論的制約の少ない雑誌

一般誌の長所

  • 読者が幅広く、かつ受理された論文はスルーされにくい。多くの同僚が読み、場合によっては引用してくれる。
  • 多様な事情から「よい」ジャーナルだと思われている。国内外でキャリアの弾みになる。次の仕事にもつながりやすい。

一般誌の短所

  • リジェクトされる確立は高い
  • 一般誌の専門性は低い場合もある。

同じ拙稿を English Historical ReviewSeventeenth Century、 Welsh History Review に投稿したとすると、おそらくは違った視点からコメントが帰ってくる。より専門性の高い事柄(例えば1690年代の西ウェールズの鉱山開発)についてその道のプロからフィードバックを得たい場合は、一般誌がベストでない場合もあるはず。一般誌はその辺りの各論はある程度正しいことを前提に、他の点を精査してくる。どんな点をみているのか?

一般雑誌が査読者へ与える指示(一部抜粋)
  • “So what? What is the significance of the article?”
  • “Does the manuscript have a broad focus and will it solicit broad interest from readers?
  • “This journal publishes articles that appeal to scholars in a variety of fields. Does this article have a broad or specialist appeal?”

狙いたい雑誌が一般誌である場合、 専門の異なる読者にも「面白さ」や「学問的意義」や「relevance」を伝えることが、リジェクトされずに、Revise & Resubmit〜アクセプトに辿り着く際に重要となる。 ではどうするか?

broad appealの方法について一考察(調理との比較から)

史料群 + 分析方法 + 学術的文脈 = 素材 + 調理方法 + 器

以上3者のバランスをとることで、よい broad appeal が可能となるのではないか。日本の学術論文には、調理方法と器が「ZEN」的ミニマリストになる傾向はないか。つまり、素材=史料群は面白くても、方法論が比較的保守的であったり、学術的な文脈との関連付け、つまり盛りつけと器が控えめであることが多いように感じることもある。凡庸な素材を調理方法とプレゼンでカバーする必要はないが、ここでは敢えて器に上手く盛る方法について考察してみる。

学術的文脈

直近の先行研究(例えば1690年代のウェールズの鉱山事業の研究や1640年代の改革者たちのパンフレットの研究)だけをどれだけ上手くカバーしても一般誌で評価されるとは限らない。もしくは、あるトピックが研究されていないことを指摘できてもそれだけでは不十分とみなされることが多いはず。仮に論文が事例研究だとすれば、その事例が面白いこと(素材のよさ)は前提として、その大きな意義と、分析枠組みの新しさが、研究の広い潮流を踏まえて説得的に示されていると broad appeal になる。

意義について

次のような質問を自分にすると良いかもしれない。本稿の主張を受け入れないとすると、読者はどのようなより大きなかつ重要な論点を見逃すことになるだろうか?

本稿の主張は重要である。なぜなら、我々はXYZであるということを理解しない限り、より大きく、かつ重大な次の問題を十全に理解できないからである。それは…
Unless we fully understand XYZ, we will not be able to tackle an even larger, important, problem for the scholarly community, that is, … [1]

こうした問題に応答してみる。

分析枠組みについて

次のように自問すると良いかもしれない。

  • 「使えそうな」アプローチや分析枠組みにはどのようなものがあるだろうか?
  • 違う時代や場所を対象に似たような問題に取り組んでいる研究はないか?そのアプローチと意外性を持たせる形で関連づけることは出来ないか?
  • 人文社会科学の隣接分野では似たような問題群を扱う研究はないか?そうした研究とのシナジーを示唆できないか?[2]
方法論の衣をカジュアルに着こなす wearing theoretical learning lightly

以下の二つを比べてみてほしい。

「本稿では心理学者が発展させた「社会表象理論」を援用して、1640年代の改革者たちの手紙を分析する。」
→ 理論ありきの応用と理解され、そのように批判を受ける可能性が高い。

「本稿の目的と史料は次のようなものである[中略]。ところで、本稿の分析ーひいては近世イングランドの改良文化の検討ーには、実は社会学者ゴフマンとその支持者たちが言うところのstigma consciousness の分析が意外な有用性を持つことが後に指摘されるだろう。」
→ このようにフレームすると、理論ありきではなく、あくまでも史料ベースで研究をしたうえで、適切な分析枠組みを探した結果であることが読者にも(新鮮な驚きをもって)伝わる。 

つまり、こうした器の盛りつけとしての分析概念は、一次史料の分析に必ずしも先立って、アプリオリに決めておく必要は無い。むしろ、論文の原稿を一度書き、推敲・拡充をする段階になってから、上の「分析枠組み」についての問いを自問してみることで、相似的な問題を扱っている分析枠組みと無理なく関連づけることが出来る。 その後、査読コメントが来た段階で必要であれば、書き直す機会や史料を追加分析する機会もあるだろう。理論を「後づけ」する必要はなく、枠組みと史料を投稿のプロセスで上手く往復するのが一つの理想なのかもしれない。

まとめ

私見を自由に述べたが、結局は各人が自分にあった方法をみつけるのが一番だろうと思う。また、こうした大きな意義や分析枠組みは、自分ひとりで思いつくのは困難であることを強調しておきたい。だからこそ、活発な議論をしているセミナーや学会で発表し、同僚に原稿を読んでもらえるようにすることが鍵となる。 じっさい、拙稿の枠組みやアプローチも、セミナーで聴衆から指摘されたものが少なくない。また調理方法全体の妥当性については、はやり分野の第一人者と相談をしながら模索できれば心強い。国際シンポジウムなどで積極的に発言したりして、 ネットワークを増強しておくと、こうした局面で普段であれば頼れない人のチカラを借りることも出来るかもしれない。日頃のネットワーキングの成果は、こうした場面でも効いてくるのだろう。

[1] Booth, Colomb, and Williams, The Craft of Research (3rd ed. 2008), pp. 54-61, ‘Understanding the Common Structure of Problems’に詳しい。
[2] Ibid., pp. 152-64, ‘Warrants’のセクションが参考になる。

参加者の声

会場ではアンケートを行い、28名の方から回答をいただきました。いくつかのご意見を抜粋してご紹介します。

今回のワークショップで学べたこと、もっと知りたいと思ったこと

  • さまざまな時代・地域・世代の話が聞けて参考になった。
  • 論文執筆・投稿の具体的なプロセスやノウハウが学べた。
  • 学会報告と、それに伴うネットワーキングの重要性がわかった。
  • 欧米圏で重視される研究の動向や視点が学べた。
  • 研究する際の姿勢を問い直す内容で参考になった。
  • 日本語論文でも必要な方法論だった。外国語論文のみに存在する特有の難点とは何かも考えさせられた。
  • 英語以外の外国語の場合、また海外渡航や留学が難しい場合の対策についても知りたい。

今後、ワークショップの企画として取り上げて欲しいことは?

  • エッセイ・ライティングや相互レビュー
  • 海外のカンファレンス参加についての情報共有
  • 英国風の学会発表(1人20分)をやる研究会
  • 同じ材料でプレゼンの練習をするコンペティション
  • 日本と海外のアカデミア文化の違い、日本人が国際学会で気をつけるべきこと

みなさまのご意見を参考に、活動内容を広げていきたいと思います。ご参加ありがとうございました!